私は、松原好之と申します。創設8年目を迎える「進学塾 ビッグバン・医歯薬ロジスティックス」の代表を務めさせていただいております。

おかげさまをもちまして、創設当初より、少人数ながら高い合格実績を出すことができました。これもひとえにいい先生といい生徒さんに恵まれたこと、私たち教職員と生徒さん、およびその保護者の方々との緊密なコレスポンダンスの賜物と理解し、今後ともこの予備校を続けて行ける、また行こうという力強い自信と意欲をいただいている次第です。

日本がバブルの崩壊等ですっかり自信を失い始めていた頃、教育界にも「反省」の波が押し寄せ、それまでの「詰め込み教育」から「ゆとり教育」の大切さが説かれ始めました。ところが内実は、台形の面積は求めなくてもいいとか、円周率3.14をわかりやすい3にするなど、いたずらに教育内容の中身を薄くさせるだけの結果に終わり、昨今また、その反動として、漢字学習の拡充やら、百ます計算の導入など、日本の伝統教育に回帰する傾向を示しています。

公の教育界をリードするべき文部科学省が、正しく生徒を導く指針を持ちえず、自ら迷走を繰り返している様は、とりもなおさず、この国の内政、外交の迷走とオーバーラップし、バブル以降の日本の本質的な国力の低下を如実に表す結果になっていると言えます。

1977年にイリイチが説いた公教育システムの限界性は、まさにわが国のバブル崩壊期とも重なって、哀しくも正しい予言として的中してしまったのです。

そうした中で、ことの是非はともかく、難関大学に生徒を多数送り込む有名進学校や,高校野球での甲子園の常連校など、いわゆる「強い」高校の多くが、イリイチがネガティヴな意味で「宗教」ということばを用いたのとは裏腹に、わが国においてはミッション系の私立高校であるという事実も、「公教育に背を向けたもの勝ち」のイメージをさらに強める皮肉な結果になりました。

この強さ、弱さの原因は、明らかです。公教育があくまで「子ども時代はどうあるべきか」とか、「子どもらしさこそがすべてに勝る」といった浅薄な情緒に訴えた、哲学的衒学趣味いっぱいの近視眼的な考えから脱却できなかった弱さをかこっていたのに対し、はっきりと現に目の前にある大学とか、甲子園とかいった次のステップをのみ意識した、現実主義的な教育方針を打ち出したのが、私学教育の根幹だったからです。

予備校・塾は、その私学教育をさらに純化して、文字通り「教育」より「教育サービス」を提供することで、いわゆる教育産業という分野を築いてまいりました。大手予備校の中には、高校の進路指導に深く関わるだけでなく、メジャーどころの私立大学の経営そのものにコミットしたり、さらに東京都立大学の首都大学への移行構想に参画したりして、公の高等教育に深く関わっているところもあるほどです。

教育に関して最も耳ざわりのいいことばに、「子どもの創造力を高める」云々があります。私たちはこのことばに何度だまされてきたことでしょう。

教育はもともと「先人の知識と判断のわくぐみを教える」もので、創造力は、そうしたわくぐみを超える力をいいますから、もともと教育で教えることができないものです。アインシュタインや、エジソンなど何十年に一人、何百年に一人の天才が往々にして「学校の勉強はさっぱりできなかった」、「母親が学校の先生に代わって教えた」などと言われるのは当たり前の話で、彼らは教育のわくぐみそのものを超えていたからです。しかしそれをもって「教育の無効」をいう必要はありません。彼らと同時代を生きた無数の無名の人々にとって、その時代特有のわくぐみである、日本で言う読み・書き・そろばんといった職業教育が役に立たなかったはずはないからです。

それは「学歴社会をどう思うか」という質問を、成功した芸能人やら一流のスポーツマンやらにぶつけて、「いや、私にとっても社会にとってもまったく意味のないものです。」という答えを引き出して、「学歴教育」イコール「意味のないもの」と敷衍して決め付けるような愚かなことです。そういった「学歴」に頼らず成功したほんの1パーセントに満たない天才は、「教育」のわくぐみを軽々と超しているからです。

では、学歴を得るための第一関門である、受験でいい成績を収めるとはどういうことなのでしょう。

それは、すでに答えのある問題を時間内に的確に解くことだ、ということに過ぎません。天才になれ、というのではなく、すでに天才の成し遂げた業(わざ)をなるべくうまく模倣せよ、ということなのです。

アインシュタインは、Imagination is better than knowledge. と言って、直感、創造力の、既成の知識に対する優位性を説きました。天才ならではの大変魅力的なことばですが、「ゆとり教育」の頃、教育の現場にこれを持ち込んで、勤勉性をいたずらに否定、嘲笑する材料に使われたことも事実です。

受験勉強に対する批判は今も昔も尽きることがありません。けれども、多くの受験生をたった一日か二日で判断し、ふるいにかけるというのが宿命付けられている以上、ほかにどうやって公平性を保ちつつ合格者と不合格者に分かつことができるのでしょう。私たちは、受験制度に対する批判をあれこれと展開するよりも、この受験制度の持つ宿命をしっかりと見つめ、この公平性の中でいかに勝ち抜くかという現実主義の立場に立つことをよしとし、傑出した創造力の持ち主が生まれる偶然性を待つのではなく、先人の到達した「知識と判断のわくぐみ」を最も忠実に勤勉にトレースする、天才ではなく、秀才を養成することにかまけようと考えています。これを受験教育、あえて教育と呼ぼうと思います。

野球で将来伸びるピッチャーというのは、コントロールのいい選手より、ともかくスピードのあるボールを投げられる選手の方だそうです。

ところが受験勉強においては正反対で、まずコントロールをつける、つまり、正確に解くのが先で、次にスピード、つまりなるべく速やかに、時間内に解くことをあとから考えるべきです。

正確に解くためには、問題文を正確に読むことから始まります。よく正解は問題文の中に隠されている、と言われていますが、しっかりと何が問われているか読み込むことなくして正解は決して得られません。そして意外に忘れがちなのが、暗記の大切さです。暗記の大切さと言うと、いやいや思考力が大切だ、暗記に頼っていては合格力はつかない、などというまことしやかな意見を返してくる人がいます。けれども、たった60分から90分ぐらいの試験時間の中で、本当の意味での思考力の深さなど試せるはずはありません。つまるところ、合否を決定付けるのは、日頃覚えていたことをいかに出された問題に合わせて取り出せるか、なのです。思考力ということばが、日頃覚えていたことを問題に合わせて取り出す際の柔軟な対応力をさすのであれば、それは正しいと言えます。つまり思考力といっても、ここではその深さではなく、暗記した量的基礎に基づく柔軟な対応力なのです。

塾・予備校は何を教えるのか。それは、何を暗記すべきか、とそれを使っていかに柔軟に問題に対応させるか、であることは言うまでもありませんが、大手予備校(=デパート)と違って、私どものような少人数の塾(=専門店)では、大学別に存在する出題傾向に沿った素材の提供と、それに合わせた解析力が加わります。したがって、厳選された素材と素材ごとの対応力まで涵養するため、カリキュラムがいきおい緻密になるわけです。

大手予備校で培う力だけで合格に達する「天才に近い秀才」なら、別に私どものような少人数とはいえ高額の授業料を要求する塾に来ていただく必要はありません。また少人数の塾とはいえ、ただクラスの人数が少ないだけで内容が大手予備校と同じであるような塾なら、それこそボッタクリの塾でしょう。少人数であることの意義は、あくまで各人の学習進度と模倣力、対応能力の差を念頭に置いた個別の教育が可能であることにあるからです。

では大学別の個別の対応さえしておけば誰もが合格力に達するのか、と言うと、そう簡単にはいきません。どんなスポーツでもそうですが、まず基礎体力が大切です。受験においては暗記という業はこの中に含まれます。受験における基礎体力は、まず机に向かって長く苦しい勉強を続けるという持続力、粘り強さが基本で、この力は、ことに受験間際になって大きくモノを言います。試験の最中に急にひらめいた、あれがあったから合格(う)かった、などといういわゆる爆発力、瞬発力は、実はこの基礎体力が裏で糸を引いていたということが少なくないのです。アテネオリンピック女子マラソンで優勝した野口みずき選手が、ツチノコを見た時には優勝した、と言って話題になりましたが、勝利の女神は、えてして長く苦しい持続力を培ってきた選手だけに、ほほえみという名の突発的ないたずらをして自分の存在を知らしめているのかもしれません。私たちは、生徒に一年間習った先生や事務の人たちの声が試験の最中に聞こえてきたら受かるよ、と勝利の女神を装いながら(?)励ましています。

別に医学部受験生だから、相対する講師が特別な性質をもった存在であるべきだ、ということではありません。ただ、わがビッグバンの講師は、いわゆるプロの先生と、現役医学部生や大学院生を中心とした、つい最近受験を経験したばかりの学生の先生とで成り立っているという何気ない特徴を持っています。

これは、難関大学合格への最短距離が、「斯界に精通したプロ、セミプロによる密着指導」によって作られる、とする私どもの持論から来るもので、プロとは、文字通り大手予備校で実績と名声を誇るプロ講師という意味ですが、少し補足する必要があります。

大手予備校で人気を博しているプロの先生方の中には、中身よりも派手なパーフォーマンスや面白おかしい雑談をもってなる方々も多くみられます。衛星授業などで、質問もできない、添削もしてもらえない授業でありながら人気を博している、それこそ予備校講師の鏡のような天才講師は、ひょっとすると授業の中身以外のところで人気を博しておられるのかも知れませんが、ビッグバンにはまったく必要のない先生です。私自身も大手予備校で数年前にテレビ向け授業に出演したことがありましたが、その時何より心がけたことは、わかりやすく相手に伝えようということより、いかに時間内に過不足なくコンパクトにまとめた説明をしようか、ということでした。私の力不足もあったかも知れませんが、生徒という相手がカメラの向こうにいることは二の次で、ひたすら時間とのむなしい戦いであったことを覚えています。 ビッグバンで必要とする先生は、時間制限はあるけれどもそれはとりあえずであって、あくまでわかるまで教える、そして、いちばんなおざりになりがちな「定着」まで面倒を見るということを、相手と密着しながら教える実力と情熱を兼ね備えた先生のことです。この実力と情熱というのは、斯界でいう「問題を解くためのノウハウとそれを系統立てて教える能力」のことで、空回りの情熱家や、逆に高いところからモノを言うような勘違いの実力者のそれではありません。「講師の質ならビッグバン」といわれるゆえんはここにあります。

学生の講師も高い教授力を持った、そんじょそこらのアルバイト講師とは画然とした違いを持つ若いセミプロたちです。ところで彼らの多くは、意外にもはじめからよくできて楽に難関大学に合格した学生ではありません。むしろあまりよくできない状態から、自力で、あるいはしかるべき先生との出会いでノウハウを獲得する過程を経てやっと合格した、それだけに若いに似ず情にあつい苦労人が多いです。あえてそういう学生を採用しているとも言えます。特に大手予備校でさえ払底している物理、化学、生物科の講師ということになると、最新の受験知識を身につけた学生講師のほうが、いたずらに年齢を重ねただけの公教育に携わる先生を凌駕しているのは珍しいことではありません。 このプロ、セミプロが有機的に絡まって少人数、密着指導を展開することになります。個別指導ひとつをとっても、別個独立した指導ではなく、合格へのカリキュラムに沿いつつ、そこから逸脱しない範囲で展開されるため、講師の個人プレイに堕することなく、生徒はしなやかな問題対応力を培うことができます。

将来医師になる、医学部受験生にこうした過剰なほど手厚い少人数教育がどのように機能するのか、私は、それに「与えられた愛情の分だけ患者に対して愛情を与えることができるはずだ」と答えることにしています。世間では苦労を味わった人が偉大な人間になる、といわれていますが、そのことばにはもう少し但し書きが必要でしょう。親であれ、他人であれ、苦労している時期に助けてくれた人がいるかどうかが、将来のその人にとって他の人を信じられるようになれるかどうか、他の人を心底好きになれるかどうか、が決まるのだと。

大手予備校の衛星中継放送による授業が、教育の本来のありようであるべき「知識とともに愛情をも伝達する」役割を担えないのは当然のことですが、それはコンピュータ化がいくら医療の現場に入り込もうとも、最終的に患者を治すのは医師たちの「愛情をこめた」施術の力だという事実とリンクするものだという気がいたします。

このフレーズにこめた私どもの思いをかみしめていただきたいと思います。幼い頃に幻視した夢の実現に向かって人はいくつもの苦労を乗り越えて行くものだという謂です。

小説家は老成するにつれて、処女作に向かって収斂していく、と言われています。どれほど大家になろうともいちばん若い頃に書いた作品を越えることはないと言われています。

それは人間の成長ということが、実は、幼い頃に最初に結晶化した「夢」を実現する運動だ、ということばと重なるものです。医師を目指す受験生が、いくらいい加減だったり、ふしだらだったり、引きこもりがちだったり、勉強嫌いだったり、無礼だったり、人とのコミュニケーションが下手くそだったり、暴力的だったり、持続力がなかったり、根性なしだったり、お調子者だったり、警察沙汰を起こしたことがあったり、親と数年間口をきいたことがなかったり、であったとしても、幼い頃に幻視した「夢」を思い出したときには一瞬であれ、立ち止まるはずです。

人間の心の問題点などたかが知れています。幼い頃の「夢」の巨大さに比べれば。

私たちは多かれ少なかれ問題を抱えた生徒と相対するとき、また保護者の方々と相対するとき、時としてこの「夢」をコミュニケーションの入り口として用います。自らもいまだ未熟をかこつわが身を思い、心の中ですこし苦笑しながら、あえてこのあざとい方途を用います。

私たちが皆様のそうした夢を少しでも共有でき、その実現に向けての苦労を分かち合うことができたなら、これにまさる喜びはありません。私たちは医師にはならず、医師を育てる受験教育者の道を選び取りました。そしてそれに誇りと喜びを感じております。

私たちとともに医学部合格・医師になるという夢に向かって、ともにたたかって行こうではありませんか。

「進学塾ビッグバン・医歯薬ロジスティックス」 代表 松原好之